チリ、1970-1973
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1. 1970年9月4日
1970年9月4日、チリ共和国の大統領選挙で Salvador Allende が勝利した。得票率は36.6%、対立候補の保守系 Jorge Alessandri(35.3%)、中道 Radomiro Tomic(28.1%)を僅差で上回った。過半数に届かなかったため、チリ憲法の規定により最終決定は国会に委ねられる。国会は10月24日、得票順位に従って Allende を選出した。
この投票が持っていた世界史的な意味は、当時の本人たちにも明瞭に意識されていた。武装蜂起でも、軍事クーデターでも、党による一党独裁でもなく、選挙によって社会主義政権が誕生した最初の事例である。1917年のロシア以来、社会主義は革命と結びつき、その多くは内戦を経由し、その全ては一党体制に収斂していた。チリの賭けは、ここに別の経路を開くことだった。複数政党制、議会制民主主義、憲法尊重、報道の自由。これらを維持したまま、生産手段の社会化へ向かう道。当時の言葉で "La vía chilena al socialismo"(チリの道による社会主義)と呼ばれる構想である。
政権を担ったのは Unidad Popular(人民連合、以下 UP)。社会党、共産党、急進党、MAPU(統一人民行動運動)、社会民主党、そして独立左派が結集した広範な連合だった。Allende 自身は社会党の創設メンバーの一人で、しかし過激派ではなく、1930年代から一貫して「制度内の社会主義」を主張してきた古参政治家である。この時すでに62歳。四回目の大統領選挙挑戦にして、ようやく勝ち取った勝利だった。
ホワイトハウスの反応は即座だった。9月15日、Richard Nixon は大統領執務室で Henry Kissinger、CIA長官 Richard Helms らとの会議を開いた。Helms が取ったメモの一節は後年、米国政府の機密解除文書として公開されている。そこには Nixon の指示がそのまま記されていた。「経済に悲鳴を上げさせろ(make the economy scream)」。チリの民主主義プロセスを外から破壊することが、この日から公式の政策になった。
背景には具体的な経済的利害があった。チリの最大産業である銅の鉱山は、米国企業 Anaconda と Kennecott が支配していた。電話システムは ITT(International Telephone and Telegraph)の子会社だった。Allende の選挙公約には、これらの国有化が含まれていた。Donald Kendall(ペプシコCEO、Nixon の古くからの支援者)は、チリの非上場飲料企業の所有者を通じて、選挙期間中から Kissinger に直接働きかけていた。後にチャーチ委員会(1975年の米上院特別委員会)が明らかにしたところでは、CIA は1970年だけでもチリに対する介入作戦に数百万ドルを投じている。
それでも Allende は就任した。1970年11月3日、ラ・モネダ宮殿で宣誓を行い、政権は始動した。この日から数えて、政権は1037日続くことになる。およそ千日。
2. 1971年7月11日
政権発足から九ヶ月後、1971年7月11日、チリ国会は銅鉱山の国有化を可決した。画期的だったのは、これが全党一致で成立したことである。右派の国民党も、中道のキリスト教民主党も、反対票を投じることができなかった。銅はチリの輸出収入の80%を占める国民経済の基幹資源であり、その外国資本による支配は、左派だけでなく広範な民族主義的感情を刺激していたからである。
Allende は国有化を憲法改正として処理した。既存の憲法に新たな条項を追加し、銅その他の戦略資源は「国民全体のものである」と明記した上で、それに基づいて Anaconda と Kennecott の所有権を国家に移した。補償問題では両社が過去に得た「超過利潤」を控除すべきという算定方式を採用し、結果として実質的な補償はゼロかマイナスとなった。米国側はこれを収奪と非難したが、チリ最高裁は憲法条項に照らして合憲と認めた。
国有化は銅だけに留まらなかった。繊維、鉄鋼、セメント、冷凍食品、銀行——UP 政権の三年間で、チリ国民経済の中核部分は段階的に社会的所有へ移されていった。しかし手法は画一的ではなかった。完全国有化、労働者自主管理、混合所有、協同組合化、企業の規模、戦略的重要性、労働者組織の成熟度に応じて、異なる形態が選ばれた。単一の青写真ではなく、現場ごとの交渉と工夫による社会化という点に、「チリの道」の独自性があった。
土地改革も加速した。これは実は Allende 以前、キリスト教民主党 Eduardo Frei 政権(1964-1970)から始まっていた。1967年の農地改革法が法的基盤を提供していた。UP 政権はこの法律を最大限活用し、就任からの一年半で約3500万ヘクタールを収用、農民協同組合(Asentamientos)や国営農場(CERA)として再組織した。1972年までにチリの大土地所有制(Latifundio)は事実上解体されていた。
しかしここには、後に政権を苦しめる矛盾も仕込まれていた。中規模土地所有者(UP が敵視していない階層)は、土地改革の不確実性のなかで投資意欲を失い、一部は生産物を市場に出さなくなった。都市部では低所得層の購買力上昇(最低賃金引き上げ、基本食料品の価格統制)によって需要が爆発的に増えた。供給は追いつかず、闇市が発生した。
経済的困難は外的要因によっても加速された。国際銅価格は1971年から下落局面に入り、チリの主要輸出収入が減少した。米国は世界銀行、米州開発銀行、民間銀行を通じてチリへの信用供与を停止させた。Kissinger の言う「経済の悲鳴」が、計画通りに実装されていた。
それでも政権初年の1971年、経済は成長した。GDP は約8%伸び、失業率は低下し、実質賃金は上昇した。労働者階級と農民の生活水準は明らかに改善した。サンティアゴ市内の壁という壁に、社会主義的リアリズムの壁画が描かれた。Brigada Ramona Parra(共産党青年部の壁画集団)の仕事である。色彩は強烈で、図像は民衆的で、描き手の多くは無名の若者たちだった。
3. 神経系としての社会主義
1971年7月、政権発足から八ヶ月が経った頃、イギリス人のサイバネティシャン Stafford Beer のもとに一通の招聘状が届いた。差出人は Fernando Flores、当時27歳、国家発展公社(CORFO)の技術担当副総裁である。Flores は Beer の著作『Brain of the Firm』(1972年刊行予定)を読んでいた。そこに書かれていた Viable System Model(実行可能系モデル、VSM)が、チリ経済の社会化という課題に直接応用できると彼は直感した。招聘状には、この理論を実装に移すための招待が書かれていた。
Beer は57歳。イギリス陸軍のオペレーションズ・リサーチ将校から出発し、United Steel 社のチーフサイバネティシャンを経て、独立コンサルタントとして大企業の組織設計に携わってきた人物である。マルクス主義者ではない。むしろ保守的な英国中産階級の出身で、葉巻とウィスキーを好み、禿頭に顎髭を蓄え、大量の著作を残しつつ絵画と詩も嗜む、やや風変わりな知識人だった。しかし彼は招聘を受諾した。自分の理論が、西側の株式会社ではなくラテンアメリカの社会主義政権に適用されるという提案は、彼の生涯における最大の知的賭けだった。
Beer が提案した VSM は、生体の神経系をモデルにしていた。いかなる組織も生き残るためには、五つの機能的サブシステムを持たねばならない。これが VSM の核心である。システム1は現場の作業単位(身体でいえば器官)、システム2は作業単位間の摩擦を調整する機能(自律神経)、システム3は内部全体の最適化(身体機能の恒常性維持)、システム4は外部環境との関係管理と未来予測(知覚と計画)、システム5は組織全体のアイデンティティ保持(自己意識)。重要なのは、どのレベルも中央集権的に上から統制するのではなく、各レベルが自律性を保ちながら相互にフィードバックしあうことだった。Beer が繰り返し強調したのは、「制御(control)」という言葉の誤解を解くことだった。VSM における制御とは、命令ではなく、システムが自らの生存可能性を保つ自己組織化過程を指していた。
これをチリ経済に適用するとどうなるか。各企業(システム1)はそれまで通り自律的に運営される。ただし毎日の生産データ(産出量、労働者数、原材料消費、在庫、異常事象)がサンティアゴの中央へ送信される。中央ではこれを統計的に処理し、異常があれば現場に警告を返す。警告は命令ではなく、「あなたの工場の指標は通常範囲を外れている、確認されたい」という情報である。解決は現場の自律性に委ねられる。こうして、中央集権的ソ連型計画経済でも市場経済でもない、第三の経済運営原理が目指された。
実装には当時入手可能な技術しか使えなかった。インターネットはまだ存在しない。パーソナルコンピュータも存在しない。チリ全土に散らばる500の国有化企業をリアルタイムで接続するために Beer のチームが選んだのは Telex。1930年代から使われている文字通信ネットワークだった。Telex端末は各企業に設置され、専用の入力フォーマットに従って日々のデータを打ち込む。データはサンティアゴの IBM System/360 Model 50 メインフレームに集約され、Cyberstride と名付けられたソフトウェアで処理された。Cyberstride はベイズ統計に基づく異常検知プログラムで、現代の言葉でいえばアノマリー検出に相当する。
そして、これは後に最も有名になる施設だが、意思決定のための空間として Opsroom(Operations Room)が設計された。中央発展公社の建物内に作られた、円形の部屋である。中央に七つの白いファイバーグラスの椅子が円を描いて配置される。各椅子には、手元のボタンで操作する専用コントロールパネルが組み込まれている。壁面には四つの大型スクリーンが並び、経済指標、異常警告、シミュレーション結果をリアルタイムで表示する。照明は間接光で暗め、椅子は未来的な湾曲デザイン、全体の印象はスタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』の未来的意匠に近い。実際、Beer もインダストリアルデザイナーの Gui Bonsiepe もそれを意識していた。
Opsroom は1972年末に完成した。しかし実は Allende 自身がこの部屋を使って意思決定を行うことは、ついになかった。プロトタイプとして完成したものの、正式な運用には至らなかった。皮肉なことに、クーデターの三日前になって Allende は Opsroom をラ・モネダ宮殿に移設することを承認している。実現する時間は残されていなかった。むしろ Opsroom が果たした機能は象徴的なものだった。社会主義が、スターリン時代のソ連のような鉄と煤煙のイメージではなく、クリーンでモダンで知的なものでありうる、という視覚的宣言である。Opsroom の写真は海外メディアでも取り上げられ、Allende 政権の先進性のイメージを形成した。
Cybersyn が実際に最大の力を発揮したのは、1972年10月のトラック運転手ストライキ(El Paro de Octubre)においてだった。これは自営業のトラック運転手組合が主導したストライキだったが、CIAの資金援助を受けていたことが後に判明している。チリの物流は事実上停止した。サンティアゴの市場から食料が消え、鉱山から港湾への銅輸送が止まった。Allende 政権は崩壊寸前に追い込まれた。
このとき Cybersyn の Telex ネットワークが、機能した。政府支持派の独立トラック運転手、国有化企業の輸送部門、港湾労働者、鉄道労働者。これら分散した主体が、Telex を通じて互いの状況を把握し、代替ルートを即席で組み上げた。中央の命令ではない。各ノードが情報を出し、他のノードがそれを読み、自発的に調整する。Beer の VSM の教科書的な発動だった。政府は約200台の支持派トラックを特定して物流を維持し、約三週間のストライキの間、チリ経済は最悪の崩壊を免れた。このエピソードは Cybersyn の最大の成功例として、後に Eden Medina の研究で詳細に記録されることになる。Medina によれば、1973年5月時点で国有化企業の26.7%が何らかの形で Cybersyn に接続されていた。全面実装には至らなかったが、実運用レベルの規模にまで達していたことになる。
プロジェクトには影の側面もあった。Beer 自身が Allende に対して書いた覚書の中で、VSM が「自由の技術」であると同時に「全体主義の技術」にもなりうると警告している。システム4が環境データを集めすぎれば監視国家になる。システム3が強くなりすぎればソ連型になる。Beer が強調し続けたのは、分散性と自律性の保護こそが設計の核心であって、技術仕様そのものに中立性はないということだった。この慎重さは当然クーデター後の Pinochet 政権になく、 Cybersyn のインフラを監視体制に転用した。
4. 本を民衆に届ける
社会主義の神経系を電子的に構築する試みと並行して、もう一つの系が動いていた。こちらは電気ではなく、紙とインクを媒体にしていた。1971年2月、Allende 政権は国家開発公社(CORFO)を通じて、倒産寸前の民間出版社 Zig-Zag を買収し、国営出版社として再編した。新しい名前は Quimantú 。マプチェ族の言語で「太陽の知」を意味する語である。先住民の言葉を掲げた出版社が、チリ全土に書物を送り出す。
Quimantú の目標は数字で表現できる。通常の書店では一冊60エスクード(労働者の日給の半分程度)だった文庫本を、12エスクード(新聞一部とほぼ同じ値段、あるいはパン一個とほぼ同じ値段)に下げる。そしてそれを、書店だけでなく、新聞スタンド、市場の露店、工場の入り口で売る。都市中産階級の文化的商品としての本ではなく、大衆的日用品としての本への組み換え。二年間で総計約1,200万冊が刷られた。当時のチリ人口は約1,000万人である。つまり計算上、国民一人あたり1冊以上が Quimantú 経由で流通したことになる。
刷られた内容はいくつかのシリーズに分かれていた。Mini-libros は世界文学の古典を扱った。Balzac、Tolstoy、Dostoevsky、Dickens、Chekhov、Kafka、Hemingway。Nosotros los chilenos(われらチリ人)は、チリの歴史、社会、労働者文化、女性、先住民を扱う普及書。Quimantú para todos(みんなのキマントゥ)は児童文学と絵本。Cuadernos de educación popular(民衆教育叢書)は政治経済学と哲学の入門書で、チリ人社会学者 Marta Harnecker の『史的唯物論の基礎概念』はラテンアメリカ全土で100万部以上を売る大ベストセラーになった。そしてラテンアメリカ文学(Gabriel García Márquez(コロンビア)の『百年の孤独』、Julio Cortázar(アルゼンチン)、Mario Benedetti(ウルグアイ)、Carlos Fuentes(メキシコ))が、チリの鉱山町や農村協同組合に届いた。
ここにあった思想は、文化政策として明示されていた。「文学を労働者にわかりやすくする」のではなく、「労働者が世界文学にそのままアクセスする」こと。Tolstoy を簡易版に書き直すのではなく、普通の Tolstoy を農民の手に置く。この区別は重要だった。前者は「本物の文化」を守りつつ一部を民衆に分け与える温情主義であり、後者は文化の質を一切下げずに、アクセスだけを広げるというより根本的な挑戦だった。文化の民主化ではなく、文化の民衆化。この区別は、Nueva Canción 運動とも共通する原理である。
Quimantú 単独ではなかった。文化政策全体が並行して動いていた。国営 TV Canal Nacional では文学朗読シリーズ "Lecturas" が放映され、労働者向けの夜間成人教育プログラムが拡張され、工場内で読書会と学習サークルが組織された。サンティアゴの街路では、Brigada Ramona Parra(共産党青年部の壁画集団、1967年結成、名前は1946年の労働者集会で警察に殺された19歳の女性活動家にちなむ)が夜間に壁画を描き続けた。工場の塀、橋の下、地下鉄の通路、都市のあらゆる表面が彼らのキャンバスになった。強い輪郭線と平面的な色彩で、労働者、農民、銅、麦、ハト、拳、旗が描かれた。技法はメキシコ壁画運動(Rivera、Orozco、Siqueiros)の系譜を引きつつ、より平面的で、より速く描ける、ゲリラ的な様式に洗練されていった。描き手の多くは無名の十代、二十代だった。壁画は個人の作品ではなく、集団の生産物として署名された。
そしてここに、一人の詩人が関わっていた。Pablo Neruda(1904-1973)、チリが20世紀に輩出した最大の詩人、Canto General(1950)でラテンアメリカ大陸の歴史を詩的叙事詩として書いた人物である。Neruda は若い頃から外交官を兼ね、1930年代のスペイン内戦期にマドリードで共和派を支援し、1940年代末にチリの右派政権から追放されて亡命生活を送り、その後復権した共産党員の老詩人だった。Allende とは社会党/共産党の違いを超えた個人的同志関係にあった。
1970年の大統領選挙で、実は Neruda 自身が共産党の候補として一度立候補していた。しかし Unidad Popular 内部で候補を一本化する必要が生じたとき、Neruda は自らの撤退を選び、Allende への支持に回った。Allende の当選は、Neruda の撤退なしには成立しなかった。1971年、Allende は彼をパリのチリ大使に任命した。同じ年の10月、Neruda はノーベル文学賞を受賞する。ストックホルムの受賞演説で、彼は Allende のチリを明示的に讃えた。自分の国が今、大いなる変革の途上にあり、詩と政治が同じ土壌を分かち合っている、と。
詩人が大使になる国、そして本を一冊パンの値段で売る国。1971年のチリは、そういう国だった。この時期の証言としてよく引かれるのは、Quimantú の労働者がある日、工場の門前で書籍販売ワゴンに本を積み込みながら、自分がその日売る予定の García Márquez を通勤前に読んでいたというエピソードである。本を運ぶ労働者が、同じ本の読者でもあった。Allende 政権の文化政策が目指していたのは、この循環の拡大だった。読む者と運ぶ者と書く者のあいだの階級的区分を、ゆっくりと溶かしていくこと。それは一度に達成される革命ではなく、日々の交通の中で進んでいく過程だった。千日のうちに、どこまで溶けたか、正確な測定は残されていない。しかし1971年から1973年にかけてチリで刷られ、運ばれ、読まれた1,200万冊の本は、少なくともその過程が物質として実在していたことの証拠ではある。
5. 民衆の声が民衆に還る運動
1950年代後半、一人の女性がチリの農村を歩き回っていた。彼女の名は Violeta Parra(1917年生まれ)、サンカルロス出身、幼少期から極貧の中で育ち、家族で放浪の音楽師として生計を立てた経験を持つ、独学の芸術家である。Parra は農民たちの家を訪ね、彼らが口伝で受け継いできた歌(Tonada、Cueca、Canto a lo divino、Canto a lo humano)を採譜し、録音した。彼女が集めた素材は最終的にチリ大学民族音楽研究所に収蔵される。しかし Parra の仕事は単なる民俗学的採集には留まらなかった。採集した素材を基に、彼女自身が新しい歌を書き始めた。民衆歌の形式を借りながら、内容は同時代の社会矛盾を扱う歌。採集から創作へ、過去から現在へ、という動きがここにあった。
Parra の活動が運動として組織化されたのは、1965年にサンティアゴ中心部の Carmen 通りに開いた La Peña de los Parra(ペニャ・デ・ロス・パラ)による。Peña とは元来「仲間の集まり」を意味するスペイン語で、特定の文脈ではフォルクローレを演奏する場所を指す。Parra の Peña には、彼女の子供である Isabel と Ángel、そして若い音楽家たちが集まった。Rolando Alarcón、Patricio Manns、そして、ここで Víctor Jara が登場する。
Víctor Jara(1932年生まれ)はもともと演劇人だった。国立演劇学校で学び、演出家として活動していた。音楽は副次的な活動だった。しかし Peña de los Parra に出入りするうちに、Jara の歌は独自の強度を持ち始めた。彼の声は甘くもなく、技巧的でもない。むしろ素朴で、やや荒れた、しかし強い直截さを持っていた。歌詞は労働者、農民、貧困、警察暴力、愛、政治を扱った。1966年の "El aparecido"(チェ・ゲバラへの歌)、1969年の "Preguntas por Puerto Montt"(軍による農民虐殺を告発した歌)。Jara の歌は、同時代のチリ社会の傷に直接触れた。
Violeta Parra は1967年2月5日、彼女自身が設立したテント劇場の仕事場で、銃による自殺を遂げた。49歳だった。自殺の前年、1966年に彼女が書いた "Gracias a la vida" は、彼女の代表作として世界的に広まる。「人生よ、ありがとう / あなたは私に多くを与えてくれた」という冒頭で始まるこの歌は、逆説的な生への賛歌である。死を意識した人間が、その死の直前に、それでも生に感謝するという構造を持つ。後に Mercedes Sosa(アルゼンチン)、Joan Baez(米国)が歌い、Nueva Canción を超えてラテンアメリカの精神的遺産となった。
Parra の死後、運動は Víctor Jara、Inti-Illimani、Quilapayún、Patricio Manns らを中心に展開していった。Inti-Illimani と Quilapayún の両アンサンブルは、アンデス高地の民俗楽器(ケーナ(縦笛)、サンポーニャ(パンパイプ)、チャランゴ(小型弦楽器))を用いた。これらの楽器はチリの都市部では商業音楽から排除されていた先住民系の楽器であり、それを用いること自体が文化的・政治的ステートメントだった。演奏者たちはポンチョを着て舞台に立った。メスティーソ(混血)文化の再発見、先住民文化の復権、ラテンアメリカ大陸全体への帰属意識。これらが運動の文化的軸となった。
Nueva Canción と UP 政治運動の関係は、単なる並行関係ではなかった。Víctor Jara は Allende の選挙キャンペーンに全面的に参加し、全国を巡回して歌った。"Venceremos"(勝利を我らに)は UP のキャンペーン歌として作られ、選挙勝利後は事実上の政権歌として機能した。政権発足後、Jara は国立工科大学(UTE)の文化活動責任者となり、労働者のための文化プログラムを組織した。工場、鉱山、農村協同組合を訪問し、歌い、そして歌を教えた。ここで Nueva Canción が達成していたものは、文化の民主化ではなく、文化の民衆化。つまり、消費者としての民衆に文化を届けるのではなく、創造者としての民衆に文化の手段を渡すこと、という企図だった。
Violeta Parra の農村での採集活動から Víctor Jara の工場での文化活動まで、Nueva Canción 運動全体を貫いていた原理は、ひとつの循環だった。民衆の声を採集し、民衆の言葉に編み直し、民衆に還す。これは情報論的に見れば、ひとつの自己回路(Autopoiesis に類する構造)を形成していた。歌という媒体を通じて、チリ社会が自己を認識する——その回路の構築だった。
6. アルゼンチンからの応答
アンデス山脈を越えたアルゼンチン側では、これらチリの動きに対する応答が、別の形式で生まれていた。その担い手の一人が Astor Piazzolla(1921年生まれ)である。
Piazzolla は既にこの時期、国際的評価を得ていた。パリで Nadia Boulanger に師事した経歴を持ち、古典的タンゴの形式を解体して現代音楽的要素(十二音技法、ジャズのハーモニー、対位法)を導入した "Nuevo Tango"(新しいタンゴ)の創始者として知られていた。しかしアルゼンチン国内、特にブエノスアイレスの伝統的タンゴ界からは激しい反発を受けてもいた。「これはタンゴではない」という批判は、Piazzolla の生涯を通じて続くことになる。
1960年代後半から1970年代初頭、Piazzolla は器楽作品だけでなく、歌曲にも積極的に取り組んだ。協力者は主に二人の詩人だった。一人は Horacio Ferrer。Piazzolla と組んで "Balada para un loco"(1969)や室内オペラ "María de Buenos Aires"(1968)を作った、象徴主義的で個人的感情の強い詩人である。もう一人が、Mario Trejo(1926年生まれ)。ジャーナリスト、脚本家、詩人として活動し、政治的には左派、ラテンアメリカ統合思想(Patria Grande)に共感を持つ知識人だった。
Piazzolla と Trejo の協働作品の一つが "Violetas Populares"(1970年)である。歌ったのは Amelita Baltar、当時の Piazzolla のパートナーで、"Balada para un loco" でもソリストを務めた歌手だった。曲は1970年、つまり Allende が選挙で勝利したその年に発表された。
歌詞の中心人物は Violeta Parra である。題名の「民衆のすみれたち(Violetas Populares)」は、Violeta(スペイン語ですみれ、そして固有名)の複数形を用いることで、Violeta Parra 個人から、彼女が体現した民衆運動全体への広がりを表現している。冒頭の「サンティアゴの夜だった、バルパライソにも届くほどの(Fue la noche de Santiago, y casi Valparaíso)」という一節は、チリという国そのものへの呼びかけであり、そこに住まう運動への連帯の表明である。
歌は段階的に展開する。第一節ではチリの民衆歌手 Violeta Parra が召喚される。「Violeta Parra という名の女、狂ったように歌い、歌いつづけ(Violeta Parra se llama, cantaloca cantadora)」。「狂った(loca)」という形容詞は、Parra の芸術的狂気への言及であり、同時に彼女の自殺への暗示でもある。
第二節からは歌詞の調子が変わる。「奥様、あなたを死と呼ぼう、革命と呼ぼう(Señora, llámese Muerte, llámese Revolución)」。ここで「奥様(Señora)」として擬人化されるのは、死でも革命でもある、歴史の到来そのものだ。タンゴの古典的技法であるアレゴリー(寓意)を、Trejo は政治的文脈に転用している。
終盤では、ラテンアメリカ統合思想が明示的に語られる。「最後に、同志よ、このアルゼンチンのミロンガの、われらのラテンアメリカが、ほんとうのものになりはじめる(Y en el final, compañera de esta milonga argentina, nuestra América Latina, comienza a ser verdadera)」。これは1819年に Simón Bolívar が提唱した "Patria Grande"(大いなる祖国(ラテンアメリカ諸国は分離独立すべきではなく、ひとつの統合された共和国となるべきだという思想))に連なる。Bolívar の夢は19世紀の軍閥割拠のなかで挫折したが、20世紀後半にキューバ革命、Allende 当選、その他の左派運動を経て、再び実現可能な構想として浮上しつつあった。"Violetas Populares" はその機運のなかで書かれた。
この曲が、Piazzolla の膨大な作品群のなかで、今日では比較的忘却された位置にある。"Libertango"(1974)、"Adiós Nonino"(1959)、"Oblivion"(1982、映画『エンリコ四世』のために書かれた)。これらは Piazzolla の国際的代表作として繰り返し演奏される。しかし "Violetas Populares" は、彼の政治的色彩の強い時期、Baltar との協働時期、Trejo との共作、そしてチリの出来事への連帯という、複数の要因で商業的主流から外れた位置にある。1974年以降の Piazzolla は次第に欧州のクラシック音楽市場向けに作風を調整していき、政治的色彩は後退する。
それでも1970年のこの瞬間、Piazzolla と Trejo がアルゼンチンから隣国チリへ向けて書いた歌は、ラテンアメリカの知識人層が、何が起きているかを理解していたことの記録である。Allende の勝利は孤立した出来事ではなく、大陸全体の動きの一部として受け取られていた。
7. 三年間の困難
政権初年の1971年は、UP にとって最良の年だった。GDP 成長率は約8%、失業率は3%台に低下、実質賃金は20%以上上昇した。国有化は着実に進み、しかし国際経済環境はまだ破局的ではなかった。11月にはキューバの Fidel Castro が三週間のチリ公式訪問を行い、群衆がサンティアゴの街路を埋めた。この訪問は UP 支持者を熱狂させたが、同時に反共右派を決定的に硬化させることにもなった。
1972年から歯車が逆回転を始めた。国際銅価格の下落、米国による信用供与の停止、国内での食料供給不足、インフレの加速。1971年には22%だったインフレ率は1972年に163%、1973年には600%を超える水準に達する。最低賃金は定期的に引き上げられたが、現実の購買力はそれを追い越せなかった。都市部では、中産階級の主婦たちが鍋とスプーンを叩いて街頭デモを行った(Cacerolazo、カセロラソと呼ばれる抗議形式)。供給不足は政府による価格統制下で闇市を肥大化させ、左派内部では食料配給制の導入をめぐる激しい議論が起きた。
1972年10月、トラック運転手ストライキ(El Paro de Octubre)が発生した。表向きはトラック運転手組合の経済要求だったが、実質は野党連合(Confederación Democrática)による反政府総合攻勢だった。ストは商店主組合、専門職組合、一部の労働組合にも波及し、サンティアゴの物流は麻痺した。このストライキは前述の通り、Cybersyn のネットワークによって最悪の崩壊を免れたが、しかし政権の脆弱性を決定的に露呈した。Allende は軍人の閣僚登用に踏み切り、陸軍総司令官 Carlos Prats を内務大臣に任命した。これは政権の救急処置だったが、軍の政治的影響力を正常化するという、後に致命的となる先例を作ってもいた。
1973年3月に行われた国会中間選挙は、UP にとっての試金石だった。野党連合は UP の議会少数派をさらに追い込み、最終的には Allende 弾劾に必要な議席数を獲得する計画だった。しかし結果は野党の期待を裏切った。UP は得票率を43.4%に伸ばし、前回選挙時より支持基盤を拡大した。経済的困難にもかかわらず、労働者層と貧困層の UP への支持は堅固だった。
これは野党、米国、軍内部の反政府派にとって、一つの結論を示した。選挙による UP 政権の解体は、もはや不可能である。合法的手段での権力奪取が不可能となった時、次の選択肢は何か。この問いへの答えは、1973年の春から夏にかけて、静かに形成されていった。
6月29日、Tanquetazo(タンケタソ、戦車による襲撃)と呼ばれる未遂クーデターが発生した。装甲連隊 No.2 の指揮官 Roberto Souper 中佐が率いる部隊が、ラ・モネダ宮殿を戦車で包囲した。しかし他の軍部隊は蜂起に同調せず、陸軍総司令官 Carlos Prats が現場で直接 Souper を説得し、反乱は数時間で鎮圧された。Prats は合憲主義者で、軍の政治介入に反対する立場を最後まで貫いた人物である。
しかし Prats の力は急速に失われていった。7月、海軍提督たちが公然と政府批判を始めた。8月、Prats は自宅前で将校の妻たちからデモを受ける屈辱を経験し、8月23日に辞任を決意した。後任には、Prats が個人的に最も信頼していた部下、Augusto Pinochet Ugarte が指名された。Prats はこの人事で、Pinochet が自分と同じ合憲派であり、軍の政治介入を防ぐ防波堤となることを期待した。
19日後、Pinochet は軍事クーデターを主導することになる。
8. 1973年9月11日
クーデターは同時多発的に実行された。チリ軍の四軍種(陸軍、海軍、空軍、警察(Carabineros))の四人の司令官による軍事評議会(Junta)が形成され、Pinochet がその筆頭となった。
9月11日の早朝、バルパライソ港で海軍が蜂起した。情報はサンティアゴに届き、Allende は午前6時過ぎ、大統領官邸(La Moneda)に向かった。GAP(大統領警護隊)の護衛約40名を引き連れていた。官邸では側近と電話で状況を把握し、全国向けのラジオ演説を開始する準備をした。
午前7時55分、Allende は Radio Corporación から最初の放送を行った。続いて Radio Portales、そして最終的に Radio Magallanes から。ラジオ局は順次、軍によって占拠されていった。残ったのは共産党系の Radio Magallanes のみだった。
午前10時15分頃、Allende は Radio Magallanes を通じて最後の演説を行った。それは、現代スペイン語圏の政治演説史において最も知られた文書のひとつとして残ることになる。
演説は、背信者たちへの名指しから始まる。自称海軍司令官となった Merino、カラビネロ警察総司令に自らを任命した Mendoza(「昨日まで政府への忠誠を誓っていた、匍匐する将軍」と Allende は呼ぶ)。「私の言葉には苦さはない、失望だけがある。私の言葉が、誓いを破った者たちへの道徳的処罰となるだろう」。そして労働者に対して、Allende ははっきりと言った。「私は辞任しない。歴史的岐路に立たされた以上、民衆への忠誠の代償を、私は命で払うだろう」。
その後に、最も重要な一節が来る。「歴史はわれらのものであり、歴史は民衆がつくる(La historia es nuestra y la hacen los pueblos)」。クーデターの只中の、爆撃される寸前の大統領官邸からの放送で、Allende は歴史の主語を宣言する。背信者が勝ちつつあっても、歴史は彼らのものにはならない。歴史の主体は民衆であり、力で社会過程は止まらない。「彼らは力を持つ、彼らは我々を圧殺しうる、しかし犯罪でも暴力でも社会過程は止まらない」。
そして Allende は個別の相手に呼びかける。若者たちへ、歌い、喜びと闘争の精神を捧げた者たちへ。労働者、農民、知識人、弾圧されるであろう者たちへ。ファシズムはもう何時間も前から現れていた。テロ攻撃、橋の爆破、鉄道の切断、石油パイプラインの破壊のなかに、そして「介入すべき義務を持ちながら沈黙していた者たち」の共犯のなかに。
そして終盤、演説はもう一度、聴き手の耳に直接触れる。「Radio Magallanes は沈黙させられるだろう。私の声の静かな金属はもう諸君に届かないだろう。構わない。諸君は聞き続けるだろう。私はいつも諸君と共にある」。演説はここで、個人の死を超えた継続を告げる。「少なくとも私の記憶は、労働者たちへの忠誠に忠実であった一人の、尊厳ある人間のものとなるだろう」。
「民衆は自らを守らねばならない、しかし自らを犠牲にしてはならない。民衆は蹂躙されてはならない、銃で撃ち尽くされてはならない、しかし屈辱されてもならない」。ここで Allende は、受難の美学を拒否する。民衆の役割は殉教することではなく、生きて歴史を作り続けることだ。そして最後の予告が来る。「他の人間たちが、この灰色の苦い瞬間を、裏切りが勝ちを誇るこの瞬間を、超えていくだろう。遅かれ早かれ、自由な人間がより良い社会を築くために歩く、大いなる並木道が再び開かれる(de nuevo se abrirán las grandes alamedas)」。
「チリ万歳! 民衆万歳! 労働者万歳!」。これが最後の三つの叫びだった。「これが私の最後の言葉である。私の犠牲が無駄にならないことを、私は確信している。少なくともそれは、背信、臆病、反逆を罰する道徳的教訓となるだろうと、私は確信している」。
- Memoria Chilena Discurso del presidente Salvador Allende en la radio Magallanes, 11 de septiembre de 1973
- Valparaíso 大学ラジオ(RVL) El último discurso de Salvador Allende, en el golpe de Estado, difundido por Radio Magallanes
演説の直後、空軍のホーカー・ハンター機がラ・モネダ宮殿を爆撃した。爆撃は午前11時52分に始まった。宮殿の一部が炎上した。Junta 側は Allende に亡命を提案したが、Allende はこれを拒否した。午後2時、軍が宮殿内部に突入した。午後2時半頃、Allende は二階のサロンで自殺した。凶器は Fidel Castro から贈られていた AK-47 自動小銃だった。発見された遺体は顔面を著しく損傷しており、しばらく死因について議論があったが、2011年の遺体再検証で自殺であることが確認されている。
同じ日、Víctor Jara は国立工科大学(UTE)のサンティアゴ中央キャンパスにいた。彼は前日9月10日の夜遅くまで、その大学で予定されていた Allende の演説(国民投票への信任提案が含まれる予定だった)の準備に関わっていた。9月11日の朝、クーデターが始まったとき、Jara は大学構内に留まった。昼過ぎ、陸軍部隊が大学を占拠し、教職員と学生約600名を逮捕した。Jara も逮捕された。
逮捕された者たちは、Estadio Chile(後に Estadio Víctor Jara と改名されるスタジアム)に連行された。Estadio Chile は屋内型の中規模スタジアムで、コンサートや格闘技の会場として使われていた施設である。9月11日から数日間、そこは即席の強制収容所となった。
Víctor Jara は1973年9月12日の夜から9月15日までの四日間、Estadio Chile で拷問を受けた。目撃者の証言によれば、将校の一人が Jara を認識し、「ギタリストだな」と嘲って彼の両手をライフルの銃床で砕いた。砕かれた手を床につけた Jara は、それでも "Venceremos"(勝利を我らに)を口ずさんだ。割れた唇で、UP の選挙歌の一節を、捕虜たちの前で。Jara はその後、他の囚人たちの前でペンと紙を与えられ、詩を書き留めた、という証言もある。彼が書いた最後の詩(後に "Estadio Chile" というタイトルで知られる)は、ある囚人が紙片を靴下に隠して持ち出し、世に出ることになる。その詩の最後の行は未完で終わっている。「歌え、なんと歌いにくいことか、恐怖を歌うのは。私は生きている恐怖を。自分が死ぬのを見ながら死ぬ(...)(Canto, qué mal me sales cuando tengo que cantar espanto)」。
Jara は9月15日に射殺された。司法調査で後に判明したところによれば、ある将校が彼に対してリボルバーで「ロシアン・ルーレット」を強要し、最終的に頭部を撃ち抜いた。その後、遺体はマシンガンで乱射された。法医学的検査では、遺体に44発の銃弾痕が確認された。翌16日、遺体はサンティアゴ郊外の道路脇に投棄されていたところを、偶然発見された。妻の Joan Jara(イギリス人のダンサー)は、遺体安置所で夫を確認し、公の葬儀を許されないまま秘密裏に埋葬した。Joan Jara はその後チリ国外に亡命、やがて再び戻り、Víctor Jara 基金を主宰して夫の名誉回復運動を生涯続けた(2023年没)。夫の遺骸が正式な葬儀をもって再埋葬されたのは、事件から36年後の2009年12月のことである。
Cybersyn の Opsroom は、クーデター後の数日の間に破壊された。軍は施設の戦略的価値を理解せず(あるいは理解しつつも政治的汚染物として処理し)、Telex 端末は撤去され、Opsroom の家具は廃棄された。メインフレーム機材の一部は他用途に転用された。Fernando Flores は逮捕され、マゼラン海峡の南端に浮かぶ Isla Dawson(ドーソン島)の強制収容所に送られた。この収容所は、戦後チリに逃亡した元ナチス親衛隊(SS)将校 Walter Rauff が設計に関与したと伝えられる過酷な施設で、99名の政治囚のほとんどが Allende 政権の閣僚・側近だった。そこで Flores は、ある日の夕方、囚人仲間向けに非公式の講義を始めた。主題はサイバネティクスだった。後に同じく Dawson 島に収容されていた Sergio Bitar(鉱山大臣経験者、Isla 10 という番号を与えられていた)は回想録でそう記している。世界の南端で、破壊されたプロジェクトについて、破壊された政権の閣僚たちが、破壊された理論を話し合っていた。Dawson 収容所は1974年10月に閉鎖され、Flores はその後 Punta Arenas 等の施設に移送された。合計約三年の収監の末、Amnesty International の交渉により1976年に釈放され、米国へ亡命する(後にスタンフォード大学でコンピュータ科学の研究職に就き、Terry Winograd と哲学的コンピュータ論を展開、1986年の共著 Understanding Computers and Cognition に結実する)。
Stafford Beer はクーデター当日、ロンドンにいた。チリ産品の輸出を支援するためのロビー活動の会議に出ていて、その会議を終え、次の便でサンティアゴに戻ろうとしていたところだった。街中で彼の目に飛び込んできたのは、Evening Standard 紙の街頭看板だった。見出しは "Allende assassinated"。自分の仕事が終わったことを、彼はそのとき一瞬で理解した。Beer は二度とチリには戻らなかった。クーデター後の数年、彼はチリ人チームメンバーの国外脱出に奔走し、Amnesty International と連携して彼らの亡命先での学術職を確保した(Flores の釈放交渉にも関与している)。そして自身は、Surrey の邸宅、プール、高級車、そのほとんどの所有物を手放し、Welsh の田舎、Cwarel Isaf と呼ばれる石造りの小屋に移り住んだ。詩を書き、絵を描き、酒と瞑想に傾いていく後半生が、そこから始まった。チリの生物学者 Humberto Maturana は後にこう言った。「Beer はチリに実業家として到着し、ヒッピーとして去った」。
Estadio Nacional(国立競技場)、つまりサンティアゴ最大のスタジアム(収容人員約4万5千人)は、クーデター後の主要な強制収容所となった。9月から11月にかけて、約4万人が収容され、その多くが拷問を受け、数百人が殺害された。囚人たちが収容されていた更衣室には、現在、慰霊のための銘板が設置されている。
9. 1973年9月23日
クーデターから12日後、1973年9月23日夕刻、Pablo Neruda がサンティアゴの Santa María 診療所で死んだ。69歳だった。公式の死因は前立腺癌の末期症状。この診断自体は長年彼を治療してきた医師たちによる、医学的には妥当なものだった。しかしクーデター後の数日間、Neruda の身辺に何が起きていたかは、同時代の証言と、後年の司法調査で、やや別の像を結びつつある。
クーデターの日、Neruda はチリ沿岸の避暑地 Isla Negra の自宅で病床にあった。ラジオのニュースで Allende の死を知った。自宅は即日、軍による捜索を受け、蔵書と原稿の一部が破壊された。体調が悪化したため、数日後に彼はサンティアゴへ搬送される。9月23日、彼は妻 Matilde Urrutia(第三の妻、長年の伴侶)に看取られて死んだ。最後の言葉は「彼らを撃っている、彼らを撃っている」。病床のラジオで、あるいは夢うつつの中で、彼は何かを聞いていた。
葬儀は翌9月24日に行われた。戒厳令下のサンティアゴで、軍と警察が市内各所に配備されている中、数千人の市民が葬列に加わった。誰も正式な集会の許可を取れなかった。しかし棺が Isla Negra から Santiago の墓地へ運ばれる道中、沿道に人々が集まり、誰かが Neruda の詩の一節を朗唱し、別の誰かが "Venceremos" を小さく歌い、そして最後に、群衆の中の誰かが叫んだ。「Camarada Pablo Neruda、presente!」(同志パブロ・ネルーダ、今ここに!)。これは左派運動の伝統的な点呼の唱え方で、死者の名を呼び、生者が「presente(ここにあり)」と答える。軍の前で、戒厳令下で、この点呼が交わされた。クーデター後のチリにおいて最初の、公然たる公共的抗議行動だった。
2011年、Neruda の運転手だった Manuel Araya が、Neruda は毒殺されたのだと証言した。診療所で Pinochet 政権の手先による注射があった、と。チリ共産党は告発を正式に受理し、2013年に遺体が発掘された。複数の国際法医学チームによる長い調査の末、2023年の最終報告書は、毒物(Clostridium botulinum 由来の毒素)が Neruda の死亡時点の骨組織に存在していたと結論付けた。他殺とは断定されていない。しかし自然死とも断定されていない。50年後、この詩人の死に軍政の手が触れていたかどうかは、法医学と司法の時間の中でなお係争中である。
確かなのは一つだけだ。9月11日から12日間、チリの街から書籍が消え、歌が消え、壁画が消され、Opsroom は破壊され、Jara の遺体は道路に捨てられ、そしてこの国で最も多く本を書き、最も多く読まれ、最も多く愛されていた詩人が、息を引き取った。その葬儀で市民が密かに交わした点呼の "presente" は、Allende が最後の演説で予告した「大いなる並木道が再び開かれる」日までの、長い長い夜の始まりを告げる声でもあった。
10. 1973年-1990年
クーデター後、Pinochet の軍事政権は17年間続いた(1973-1990)。公式統計によれば、1991年の Rettig 報告書が殺害・強制失踪者を約2,300名と認定し、2004年の Valech 報告書、2011年の Valech II 報告書で拷問被害者を約40,000名と確定した。軍事政権下で政治的迫害を受けた人々は計およそ40,018名、うち3,000名以上が殺害または失踪した(Operation Condor による他国での暗殺を除く)。亡命者は推計で約20万人、当時のチリ人口約1,000万人の2%に相当する。特記すべきは、Valech 報告書が証言者のプライバシー保護のために、そして加害者特定を慎重に進める司法プロセスへの配慮として、証言記録全体を2054年まで(つまり事件から80年間)機密扱いにしたことである。真実の完全な開示と引き換えに、沈黙もまた制度化された。
クーデター直後から、経済政策は「シカゴ・ボーイズ」(シカゴ大学で Milton Friedman のもとで学んだチリ人経済学者たち)の手に委ねられた。国有化企業の民営化、賃金の市場化、社会保障の私的化。Cybersyn が試みていたものと正反対の経済運営が、急進的に実装された。チリはフリードマン流新自由主義経済の最初の実験場となった。Friedman 自身も1975年にチリを訪問し、Pinochet に対して政策助言を行った。この事実は後年、Friedman のノーベル経済学賞受賞(1976年)のときに国際的議論となった。
Nueva Canción の担い手たちの運命は分岐した。Víctor Jara は殺された。Quilapayún と Inti-Illimani はクーデター時たまたま海外ツアー中で、そのまま亡命した。Quilapayún はパリを、Inti-Illimani はローマを拠点に活動を続けた。彼らの演奏会はヨーロッパで継続的に開催され、亡命チリ人コミュニティのみならず、西欧左派知識人層にチリでの出来事を伝え続けた。流亡のなかで運動は国際化した。当初は予期されていなかった形で。
Cybersyn の忘却は長く続いた。1970年代から90年代にかけて、英語圏の技術史・経営学文献においてこのプロジェクトは事実上沈黙された。再評価は2000年代以降、MIT の科学技術史研究者 Eden Medina が精力的な発掘作業を行い、2011年の著書 Cybernetic Revolutionaries で決定的な復権を果たした。2022年のロンドン・サイエンス・ミュージアムで Cybersyn の Opsroom 再現展示が行われ、2023年の Evgeny Morozov による全8回のポッドキャスト『The Santiago Boys』によって、プロジェクト関係者の最新インタビューを含む包括的記録が成立した。それは破壊から半世紀後の、記憶の再建である。
Víctor Jara の名誉回復には、より長い時間がかかった。チリが民主化した1990年以降も、Pinochet 時代の軍人への司法的追及は鈍かった。2009年にようやく Jara の正式な葬儀が再挙行された。死から36年後のことである。2018年、チリの裁判所は Jara の殺害に関与したとされる8人の元軍人に有罪判決を下した。2023年、Jara を直接撃ったとされる元中尉 Pedro Barrientos(米国に逃亡しフロリダ州在住)の引き渡し手続きが米国側で進行している。
2003年、Estadio Chile は Estadio Víctor Jara に改名された。1973年9月にそこで殺された男の名が、彼が殺された場所の名となった。
Salvador Allende の最後の演説は、現在ではチリの学校教育の一部となっており、多くのチリ人がその一節「遅かれ早かれ、自由な人間が自由な社会を建設するために歩く、大いなる並木道が再び開かれる(Las grandes alamedas se abrirán de nuevo)」を暗誦できる。2006年に当選した Michelle Bachelet 大統領(父は Allende 政権下の空軍准将で、クーデター後に拷問死している)は就任演説でこの一節を引用した。
Allende の千日がチリに残したものは、単一ではない。社会主義経済運営の失敗、武装せざる政権の脆弱性、米国の介入の露骨さ、選挙民主主義の限界。これらは負の教訓として記憶されている。同時に、選挙によって社会主義政権が成立しうるという事実、Nueva Canción が達成した文化の民衆化、Cybersyn が示した分散的経済運営の可能性。これらは正の遺産として、半世紀後の現在も参照されている。
11. 2010年代以降
ここまではクーデターの直後に始まる17年の軍事独裁、1990年の民主化、そして2000年代までのゆるやかな名誉回復の局面を扱ってきた。しかし2010年代以降、動きは一段速くなった。Cybersyn は思想的に復権し、Víctor Jara は司法的に復権し、Allende の評価は再び激しく分極化した。
Cybersyn の再発見。2011年の Eden Medina Cybernetic Revolutionaries が学術的基盤を敷いた後、2014年の Evgeny Morozov による New Yorker 記事がプロジェクトを一般読者層に押し出した。決定打は2023年の Morozov 制作ポッドキャスト The Santiago Boys(全9回)で、存命のプロジェクト関係者、Raúl Espejo、Gui Bonsiepe、Sonia Mordojovich らへの新規インタビューを含む包括的記録が成立した。並行して物理的復元が同時多発で進んだ。2023年のロンドン Science Museum で Opsroom の原寸大再現展示、同年のサンティアゴ Centro Cultural La Moneda での Medina 監修の大規模展覧会、2024年の MIT Museum 関連展示。破壊から半世紀後、Opsroom は各地で物理的に甦り始めた。
思想的な受容は広がった。Leigh Phillips と Michal Rozworski の The People's Republic of Walmart(2019)は、Walmart や Amazon の社内システムが事実上の計画経済として機能している現実を示しながら、「Cybersyn が目指したものはすでに資本主義企業内で実装されている、ただし労働者のためではなく株主のために」という論を展開した。これ以降、左派テクノロジー論(Nick Srnicek、Aaron Bastani、Jodi Dean ら)は Cybersyn を定番の参照点として組み込んでいる。しかし同時に批判的な評価も存続する。Andy Beckett、Medina 自身、そして Kevin Munger などは、VSM の設計には全体主義的に転用されうる内在的リスクがあり、Pinochet 政権がもし奪取していれば監視国家インフラになっていた可能性を繰り返し指摘している。Beer 自身が Allende 宛ての覚書で書いた両義性の警告は、半世紀後に別の切実さで読まれている。
この再評価の中で、もっとも皮肉な事実は Fernando Flores 自身の政治的転向である。亡命先の米国でスタンフォード、Berkeley を経て Terry Winograd、Hubert Dreyfus と哲学的コンピュータ論を展開した Flores は、1990年代後半にチリに戻り左派の上院議員となった。しかし2000年代以降、彼は徐々に右派に接近し、2010年には右派政権 Sebastián Piñera のもとで「国家革新・競争力評議会」議長に任命される。シリコンバレー式のビジネスコンサルタントとして現代資本主義の技術倫理を説く Flores の姿は、かつての Dawson 島での囚人向けサイバネティクス講座とは距離が遠い。この転向をどう読むかで、Cybersyn 思想の「政治的純度」をめぐる論争は続いている。ある論者は「Flores の転向が VSM は本来的に政治的に中立だったことを証明している」と言い、別の論者は「一人の天才の妥協が、共同プロジェクトの記憶を汚しているだけだ」と言う。どちらが正しいかは、技術と政治の関係をどう捉えるかに依存する。
Víctor Jara の司法的復権。2016年、Jara の遺族が米国フロリダ州で提起した民事訴訟(Jara v. Barrientos)は、元陸軍中尉 Pedro Barrientos Núñez に $28M の賠償命令を下した。Center for Justice and Accountability が主導したこの裁判は、拷問被害者保護法(Torture Victim Protection Act)の活用事例として国際人権法上の画期となった。2018年、チリ最高裁は殺害に関与した8名の元軍人に有罪判決を下した。そして2023年12月1日、Barrientos は米国からチリへ引き渡され、50年経ってついに刑事裁判に直面することになった。1973年9月に殺された男の裁判が、殺害した男を被告として、2020年代に始まった。この時間の反転は、チリの移行期正義(transitional justice)がいかに長く遅いかの証左であり、同時にそれが可能であることの証左でもある。
Jara の文化的地位は上昇し続けている。Calle 13、Ana Tijoux といった現代のラテンアメリカ音楽家が継続的にカバー・リミックスを発表し、2013年には Bruce Springsteen がサンティアゴ公演で Jara の "Manifiesto" を歌った。これは Jara が処刑される数日前に録音した曲である。Inti-Illimani と Quilapayún による交響楽団編曲版も製作された。2018年にはチリ政府が Violeta Parra と Víctor Jara を国家文化遺産に指定した。しかし同時に残るのは、商業的プレゼンスと象徴的地位の著しい乖離である。Jara は記念されるが、大規模には流通しない。Spotify や Apple Music での再生数は欧米ポピュラー音楽と比較して桁違いに少ない。記念は国家的、流通は限定的。この不均衡は Nueva Canción 運動全体に共通する。運動は公式に称えられるが、同時にカノン化による無害化の過程を通過している。生前の Jara が工場や鉱山で歌って労働者に歌を返していた運動の形式は、国家文化遺産の指定では蘇らない。
Allende 政権評価の分極化。これが2020年代のチリでもっとも不穏な展開である。クーデター50周年にあたる2023年9月11日、国家的な記念行事が計画されたが、右派野党連合 Chile Vamos は公式式典をボイコットした。極右の Republican 党(指導者 José Antonio Kast、1966年生まれ、父親は元ナチス親衛隊メンバーと自身が認めている)は Pinochet 体制の「安定化功績」を擁護する声明を出し、2021年の大統領選挙では Kast は決選投票に進出していた(最終的に Boric に敗北したが得票率44.1%)。CERC-MORI の2023年調査では、チリ人の36%が1973年のクーデターを「正当化される」と答えている。これは民主化以降で最も高い数字である。これは単純な Pinochet 支持の復活ではない。2019年10月の "Estallido social"(社会的爆発)、コロナ禍、2021-2023年の新憲法プロセスの二度の失敗(2022年9月、2023年12月、両方とも否決)、治安悪化と移民流入への反発が複合して、Pinochet 期への郷愁と、Allende 期の記憶への攻撃が、同じ運動の中で起きている。
新憲法の連続否決は象徴的である。2022年の第一次草案は進歩的すぎるとして右派・中道に拒否され、2023年の第二次草案は保守的すぎるとして左派・中道に拒否された。結果として、Pinochet 政権が1980年に制定した憲法が、民主化から33年経った2024年時点でもなお効力を保っている。Chicago Boys による新自由主義経済の制度的骨格(年金の民営化、水利権の私有化、教育の市場化)は、規模を変えながらも Pinochet 時代の設計のまま残っている。こうした制度的持続と、世論における Pinochet 再評価は、無関係ではない。
Gabriel Boric 大統領(1986年生まれ、就任時36歳、民主化以降最年少)は、Allende と Frei Montalva 双方を引用する「漸進的民主変革」を掲げているが、政権運営は苦戦している。就任二年目には支持率が20%台に落ち込んだ。現代ラテンアメリカの第二波左派政権(Boric、コロンビアの Petro、ブラジルの Lula、メキシコの AMLO)は、Allende を先祖として参照しつつ、同時に「急進化による失敗」の教訓として引き受けている。もはや Allende の千日を無条件の英雄譚として扱う左派は少数派で、むしろその失敗からの教訓(議会での多数派確保、経済実務への慎重さ、軍との関係)を重視する戦略が主流である。
そして半世紀後の今、この記事を書いている2020年代後半のアルゼンチンでは、極右の Javier Milei が大統領となり(2023年就任)、通貨のドル化、国家機能の大規模削減、ミサイル型チェーンソーを振り回す演説スタイルで、ラテンアメリカの政治的振り子をさらに右へ振っている。Piazzolla と Trejo が1970年に "Violetas Populares" で歌った「われらのラテンアメリカがほんとうのものになりはじめる」という予感は、50年後の地点からは、もう一度遠くなっている。ただし同時に、Kast を破って Boric が当選したという事実、Lula が Bolsonaro を破って再登板したという事実、Petro がコロンビア初の左派大統領になったという事実。千日の遺産は、完全に消えたわけではない。それは、闘争の対象として、現在形で漂流し続けている。
porque está entrando en la historia
la Gran Patria Liberada