インターネットと「からっぽの洞窟」

この記事は人工無能を使って執筆されています。English

AIがネットをつまらなくしたという物語

最近、「AIのせいでインターネットがつまらなくなった」という話をよく聞く。

先日亡くなったモーリー・ロバートソンも、週刊プレイボーイの遺稿となったコラムで同様のことを書いていた[1]。検索してもまとめサイトやSEO記事ばかりで知りたいことにたどり着けない。AIの概要表示が浸透して、あらゆる情報からコンテクスト(文脈)が消失しつつある、と。

まるで昔のインターネットが面白かったみたいじゃないか。

1997年の預言者

クリフォード・ストールという天文学者がいる。1995年に Silicon Snake Oil(邦題『インターネットはからっぽの洞窟』)という本を書いた人だ[2]

ストールはテクノフォビアの門外漢ではない。1970年代からUnixやネットワークを使い倒してきたヘビーユーザーだ。KGBのハッカーを追跡して逮捕に導いた実績もあり、その顛末は『カッコウはコンピュータに卵を産む』として出版されている[3]。つまりインターネットの「内側」にいた人間が、内側から批判を行った。

原題の Silicon Snake Oil は「シリコンのインチキ万能薬」という意味だ。19世紀アメリカの行商人が「何にでも効く蛇の油」を売りつけた詐欺の故事に由来する。IT業界がインターネットという名の蛇の油を売りつけているぞ、という皮肉である。

この本は長いこと「外れた予言」として扱われてきた。モデムが遅いとか、コンテンツが少ないとか、技術的な指摘が時代遅れになったからだ。ワープロで書かれた履歴書には人間味がないから手書きがいい、とまで書いているらしく、さすがにそこは笑ってしまう[4]

しかし、2026年の今読み返すと、この本が本当に言いたかったことは別のところにある。

空っぽなのは洞窟ではなく、我々の方だった

ストールの問題意識を一言で要約するなら、こうだ。

「安易に答えを得られる仕組みが、考える力そのものを奪う」

彼が中国留学中に天文学者から学んだこととして、こんな言葉を紹介している[5]。本当に大変なのはフーリエ変換をすることでも、プログラミングの操作でもない。本当に大変なのは、データを理解し、それをどう利用したらいいかを考え出すことだ。

コンピュータがあれば試行錯誤はできる。しかしコンピュータ自体に洞察力はない。この種の頭脳の働きを高めてくれるのは、読書であり、作文であり、解析であり、教師なのだ、と。

つまりストールは「インターネットにコンテンツがない」と言っていたのではない。コンテンツの有無に関係なく、ネットという媒体が「安易にたどり着ける答え」を量産する構造を持っており、その構造が人間の思考を浅くする、と言っていたのだ。

「からっぽの洞窟」とは、コンテンツが空っぽという意味ではなかった。プラトンの洞窟の比喩そのままに、壁に映る影を現実だと思い込んでいる我々自身が「からっぽ」だという指摘だった。

影はますます精巧になった

30年経って何が変わったか。

インターネット上のコンテンツは膨大に増えた。arXivがあり、GitHubがあり、あらゆる一次資料にアクセスできる。ストールの時代に比べれば、洞窟の壁に映る影の数は何万倍にもなった。

しかし、影が増えたことで、我々は本物の火がどこにあるのかますますわからなくなった。

検索エンジンはSEOに汚染され、SNSはアルゴリズムに支配され、そしてAIが「概要表示」として答えの要約を差し出すようになった。モーリー・ロバートソンが嘆いた「思索の余白のない均質な答え」は、まさにこの30年の帰結だ。

だが、これはAIが引き起こした問題ではない。AIは加速装置に過ぎない。「答えだけを効率的に消費したい」という我々の欲望が最初からあって、テクノロジーはその欲望に忠実に応えてきただけだ。

まとめサイトもSEO記事もAI概要表示も、すべて同じ欲望の産物だ。面倒な文脈を読み飛ばして、結論だけを手に入れたい。善か悪か、危険か安全か、買いか売りか。二元論の答えだけを最速で。

ストールは1995年にそれを見抜いていた。

その出会いは、本当に偶然だったのか

「昔のインターネットには思わぬ出会いがあった」と人は言う。

しかし、それは本当に偶然だったのか。

小林秀雄はランボーとの出会いを、まるで雷に打たれたような衝撃として書いた[6]。だが小林は東京帝大の仏文科にいた。フランス文学の受容圏のど真ん中で、その界隈の読書と人間関係の中にいた人間がランボーにたどり着いたのだ。それは「出会い」というより、そこに至る文脈の中で必然的に起きたことだろう。

90年代のネットも同じだ。面白いサイトを「偶然見つけた」という人は、そもそも面白いものを見つけられる文脈の中にいた。リテラシーがあり、検索の仕方を知っていて、見つけたものの価値を判断できた。偶然に見えたものの正体は、準備された知性が引き寄せた必然だった。(美化しすぎだろ)

だとすれば、インターネットが面白かったのはインターネットのおかげではない。面白がれる人間がいただけだ。そして今、ネットがつまらなくなったのだとすれば、それもまたネットのせいではない。

これは今も変わらない。AIに問いを投げて返ってくる答えで満足するのは、検索結果の最初の一件だけ読んで「わかった」と思うのと同じことだ。道具が変わっただけで、構造は何も変わっていない。

泥くさい姿勢を

モーリー・ロバートソンは遺稿をこう結んだ。AIが差し出す答えを疑い、自分自身で文脈を探し、泥くさい姿勢を取り続ける必要がある。

ストールも30年前に、同じことを違う言葉で言っていた。データを理解し、それをどう利用したらいいかを考え出すこと。それだけは、コンピュータが代わりにやってくれることではない。

インターネットは最初から「からっぽの洞窟」だった。今も変わらない。

そして、今我々は久しぶりにかつての熱狂の中にいる。インターネットは広告というごみ溜めになったが、AIがかつての熱狂を連れてきた。我々はまた蛇の油を買おうとしている。


脚注

[1] モーリー・ロバートソン「AIの"侵略"でネットは『文脈』を失い、つまらなくなった」『週刊プレイボーイ』2026年1月26日発売号(連載『挑発的ニッポン革命計画』第490回)。モーリー・ロバートソンは2026年1月29日に食道がんのため63歳で死去。本コラムが事実上の遺稿となった。

[2] Clifford Stoll, Silicon Snake Oil: Second Thoughts on the Information Highway, Doubleday, 1995. 邦訳:クリフォード・ストール著、倉骨彰訳『インターネットはからっぽの洞窟』草思社、1997年。

[3] Clifford Stoll, The Cuckoo's Egg: Tracking a Spy Through the Maze of Computer Espionage, Doubleday, 1989. 邦訳:クリフォード・ストール著、池央耿訳『カッコウはコンピュータに卵を産む』草思社、1991年。

[4] 同書 p.135。筆者は未読のため、書評からの孫引きである。「笑ってしまう」もこの脚注もClaudeが書いた。未読の本について書くなら読めという意見はもっともだが、ドゥルーズ=ガタリの愛蔵版が出たばかりなので…。

[5] 同書 p.52。リー・ファン博士との逸話。同じく p.244 では「コンピュータ自体に洞察力はない。この種の頭脳の働きを高めてくれるのは、読書であり、作文であり、解析であり、教師なのだ」と述べている。

[6] 小林秀雄「様々なる意匠」『改造』1929年9月号。小林のランボー体験については「Xへの手紙」(1932年)等でも繰り返し語られている。